◇写真と寸評(附録)

写真 相模国(現神奈川県)伊勢原の大山阿夫利神社境内に建立された、伊勢原所縁の国学者、権田直助翁(ごんだ なおすけ1809~1887)の座像。

本来であれば、戦国時代の名将太田道灌公と並ぶ御当地伊勢原の顔とも言える人物なのだが、「廃仏毀釈の旗振り役」といった暗いイメージだけが先行し、直助の残した光の部分としての学問的な功績は市民にもあまり知られていない。

市民と行政との協働による積極的なPR活動に今後期待したい。   

◇権田直助 文化6年 武蔵国入間郡毛呂本郷(現埼玉県入間郡毛呂山町)に生まれる。

◇29歳で国学四大人の一人平田篤胤(ひらたあつたね)の門下に入る。国学者にして医者(皇朝医学家)であり、医者にして神官。

◇明治6年 相模国伊勢原所在の大山阿夫利神社宮司に就任。

◇明治16年 神官の最高位である「大教正」となる。

◇以降、伊勢原を終焉の地とする。

写真  伊勢原市役所正面玄関横に建立された、戦国時代の武将であり兵学者でありまた優れた歌人でもあった太田道灌公(1432~1486)の立像。

江戸城築城で全国的にも知られた道灌公ですが、その卓越した統率力と知性とが却って仇となり、関東管領上杉顕定の讒言を鵜呑みにした主君上杉定正によって伊勢原市内(上杉館)で謀殺されます。

保田與重郎(1910~1981 文芸評論家、思想家)が、台頭する藤原氏によって滅ぼされる他ない運命にあった大伴家に「滅びの美学」を観たように、武人としての勇敢さと歌人としての繊細さを併せ持ったこの名将の名と功績は、その悲劇性と相俟って私たち市民の心に永遠に受け継がれていくことでしょう。

最近の研究では、道灌公の出生地も伊勢原であったという説が有力となっているようです。

写真 相模国「大山(おおやま)」の山腹に厳かにたたずむ大山阿夫利神社(あふりじんじゃ)。

創建は今から2200年以上前の崇神天皇の時代と伝えられる。

明治初年の神仏分離令により、当神社の別当寺であった「大山寺」が分離されるという不幸な出来事もかつてはありましたが、今日ではその苦難を乗り越え、双方良き関係を保っているようです。

 

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阿夫利神社まではケーブルカー(山麓駅発)が出ていますが、時間の許す方は自然の景色と山の空気を満喫しつつ歩いてみるのも一興です。

神社までは、勾配の急な「男坂」で約40分、勾配のやや緩やかな「女坂」で約1時間の道程です

 

写真 伊勢原市の目抜き通りに鎮座する伊勢原大神宮。

伊勢原大神宮は、関東のみならず全国的にも珍しい「内宮」「外宮」の二社殿からなる神明造りの正統な神社です。

向かって左が天照皇大御神を祀る内宮、右が豊受姫大神を祀る外宮となっています。

ちなみに地名の「伊勢原」とは、伊勢原開墾に尽力した伊勢の国の人、山田曾右衛門の故郷の「伊勢(現三重県)」にちなんで命名されました。

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当神社境内には神宮遥拝所が設けられ、当地より伊勢神宮をお参りすることができます。                        

 

写真 大山阿夫利神社に勝るとも劣らずの歴史と伝統を誇る相模三ノ宮の「比々多神社(伊勢原市三ノ宮所在)」。

緑青の吹いた屋根、抜けるような空の青に「日の丸」がよく映える。敷地内には郷土博物館が設置されており、縄文・弥生時代からの刀剣や勾玉など、約2000点の貴重な考古学資料が展示されている。

 

 

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比々多神社は、伊勢原市内はもとより、近隣市町村にも多くの所管社(22社)を持つ凛とした雰囲気の古社で、氏子の他にもここを訪れるファンは多い。

                                   

写真  相模国伊勢原にある真言宗大覚寺派「大山寺(おおやまでら)」の紅葉。

大山寺は相模国伊勢原の名山大山の中腹にある古寺で、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が755年に開山したことに始まります。

高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共に、関東三大不動のひとつに数えられ、江戸期には江戸近郊の観光地として大変な賑わいを見せました。山号は雨降山(あぶりざん)

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文永年間に、願行上人によって鋳造された本尊鉄造の不動明王及び二童子像は国の重要文化財に指定されています。

写真  相模国伊勢原市にある日向山宝城坊「日向薬師」。

日向薬師は奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)に、高僧行基により開山された関東屈指の古寺であり名刹である。

神奈川県内には全国的にも知られた古都鎌倉がありますが、日向山宝城坊は鎌倉仏教が栄えるおよそ500年も前から、人々の厚い信仰の対象となり、その安寧に寄与してきました。

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日向薬師までは伊勢原駅北口よりバスがでており、終点から徒歩(20分ほど)で参拝します。苔むす参道は情趣と安らぎを参拝者に与え、途中では二体の金剛力士像が参詣客を出迎えてくれます。

宝物殿内には国の重要文化財に指定されている「薬師三尊像」が厳かに鎮座し、特定の日に限り御開帳されています。

 
霊亀2年(716)行基により開山されました。行基が熊野を旅していた時、薬師如来のお告げを受け
この地に(現、神奈川県伊勢原

 

写真 相模国伊勢原市下糟屋にある高部屋神社。

 

創建は紀元前655年と伝えられており、本殿及び拝殿、幣殿は平成28年2月に国の登録有形文化財に登録された。

御祭神は、神倭伊波禮彦命(かんやまといわれひこのみこと)他計六柱。

社殿は関東大震災で倒壊しましたが、古儀に則り昭和四年に再建されました。

伊勢神宮の式年遷宮がそうであるように、正統な儀式によって伝統は新社殿に継承され、故三島由紀夫氏も言ったようにコピーはオリジナルとなります。

 

拝殿正面の社号額の「高部屋神社」の文字は、山岡鉄舟の筆によるもの。

 

写真 処変わって、常陸国(現茨城県)水戸にある第9代水戸藩主の徳川斉昭公(烈公)が創設した水戸藩の藩校「弘道館」(国指定重要文化財 茨城県水戸市三の丸所在)の前で。

 「弘道舘」とは、吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えたとされる「水戸学」を生んだ学問所のことである。

東日本大震災で建物は壊滅的な打撃を受けたが、関係者の懸命の努力もあって震災から3年を経た2014年3月にようやく復旧した。

 

弘道館建設当時の水戸藩は、幕府に強いられた「定府制(じょうふせい)・・・参勤交代こそ免除されるが、その代わり藩主は江戸に定住させられ、お伴をする家臣やその家族、身の回りの世話をする下男下女、それらが費消する大量の生活物資の輸送費などに莫大な経費がかかった」のため、財政的には決して潤沢とは言えなかったが、それでも大金を投じて当時国内最大規模の藩校を造ったということに鑑みれば、斉昭公がいかに思想面での人材育成を重視していたか察することができる。

 

弘道館には15歳で入校が許され、若人から老人に至るまでの幅広い年齢層が兵学から和歌に至るまでの様々な学問をここで積んだ。

ちなみに、「学問は一生なり」の理念から、弘道館には「卒業」という概念はなかったそうです。

「学問は一生なり」・・・なるほど、御意にございます。小職(行政書士業)もまったく同じです。

 

写真 弘道館館内の清閑とした畳廊下にて。

障子戸の外の庭園では梅が見ごろを迎えている。

弘道館では武道や兵学といった「益荒男(ますらお)」的な学問だけでなく、花を愛でる「手弱女(たおやめ)」的な心も同時に育成した。

日本文化の精髄としての「菊と刀」である。

梅には桜ほどの華やかさはありませんが、梅の持つ「物のあはれ」的な情趣もなかなかいいものです。

 

写真 弘道館の資料室に展示されている「大日本史」。  

「大日本史」とは、ご存じ水戸の黄門様の異名をとる徳川光圀公(第2代水戸藩主 諡号は義公)が、水戸学派の学者たちに命じて編纂させた歴史書のこと。元々は、江戸小石川の藩邸に建てられた「彰考館」がその編纂所だったのだが、天保に入ってその大部分が水戸に移される。

 

大日本史の編纂事業は、光圀公死後も立原翠軒や藤田幽谷ら水戸学派の賢哲たちに連綿と受け継がれ、およそ250年の年月をかけ明治39年にようやく終了した。

大日本史を貫く尊皇思想は、幽谷の子東湖らに受け継がれ尊攘思想へと発展する。19世紀末葉、アジアの多くの国々が西洋列強による植民地支配に飲み込まれていく中、日本は一国独立を保持し、かろうじて「国体」を護持したのだが、尊攘思想はそのエネルギーを生み出す原動力となった。

 

神武天皇から後小松天皇(南北朝末期)までの南朝正統論を基軸として書かれたこの書物は、西田幾多郎(哲学者)をして「今日、歴史書の名に値するものは、水戸に大日本史があるのみである」と言わしめたそうである。

 

写真  処変わり、伊勢国(現三重県)は松阪。

鈴の愛好家であった国学者本居宣長(もとおり のりなが 1730~1801)が、とり分けお気に入りとしていた、浜田藩主松平康定から贈られた「※駅鈴」のモニュメントの前で(三重県 松阪市)。

 およそ35年もの年月を費やし宣長は「古事記伝」を書いたが、この鈴はその宣長生誕の地≪松阪≫のシンボルとして、松阪駅(写真)や本居神社の他、街のそこかしこで見ることができる。

 

※駅鈴(えきれい)とは、律令制下において、駅馬(各駅に配備し、官用に供した馬のこと)を利用する時に携行を必要とした鈴のこと。

 

写真 本居宣長宅

元々は、松阪魚町にあったのだが、保存のためやむなく明治42年に松阪城址内に移築する。

 師匠である賀茂真淵(かものまぶち)の命日に宣長が必ず掛けたという「縣居大人之靈位(あがたいうしのれいい)」の掛け軸が、二階右端の「※鈴屋(すずのや)」の床の間にうっすらと見える。

 

宣長は、昼間はこの質素な住宅の一階を診療所として医業に勤しみ、夜は二階の「鈴屋」で遅くまで執筆作業をしたそうです。宣長が古事記伝を書くまでは、誰一人として「古事記」を正しく読める者は居なかったそうですから、宣長のした仕事は偉大であったとしか言いようがありません。

 

ちなみに「縣居(あがたい)」とは、賀茂真淵の諡号。

 

※「鈴屋(すずのや)」とは、宣長が物置を改造した書斎のことであり、鈴コレクターの宣長の諡号でもある。

「古事記伝」を始め、「直毘霊(なおびのみたま)」「玉勝間」「うひ山ぶみ」などの数々の名著がここで執筆された。

 

写真 宣長と真淵が初めて会した旅館「新上屋」跡地。

 

ある日、宣長が行きつけの古書店に行くと、店の主から「あなたが会いたがっていた賀茂真淵先生が先ほどフラリと見えて、昨夜は新上屋さんに泊まったと仰ってましたよ」と聞かされた宣長は大変驚きます。おそらくお伊勢参りの途中でここ(松阪)に寄ったのだろうから、帰りもきっとまた寄るに違いないと考えた宣長は、新上屋に出向き「真淵先生が再び来るようなことがあれば急いで私に知らせてほしい」と頼み込みます。

そしてかの有名な「松阪の一夜」の奇蹟が起きます。新上屋で宣長と対面した真淵は、宣長の学識の高さの尋常でないことを一瞬で見抜き、「私は万葉集で時間切れとなってしまいましたが、若いあなたは私ができなかった古事記を研究なさい」とアドバイスします。

 

宣長が半生かけた大作「古事記伝」完成の裏には、真淵の助言があったということを忘れるわけにはいきません。

 

写真 処変わって、薩摩国(現鹿児島県)知覧の武家屋敷の見事な日本庭園。

知覧は「薩摩の小京都」とも呼ばれ、およそ260年前に建てられた武家屋敷群が今でも変わらぬ様相で訪れる者を出迎えてくれる。

驚くべきは、観光地にありがちな「からごころ」・・・例えば、≪お手を触れないで下さい≫とか、≪ここから先への立ち入りはご遠慮下さい≫・・・といった人為的な規制は一切なく、ここでは今も薩摩藩士の末裔が普通に住み、普通の暮らしをしているということです。つまり「人為的にこしらえた」のではなく「歴史的に醸成された」ということです。

残念ながら写真はありませんが、屋敷群をぐるりと囲む、生け垣と石垣とをバランスよく組み合わせた特徴的な垣根も美しい。

 

写真 知覧郊外に広がる茶畑をバックに。

大東亜戦争末期の特攻隊基地があった知覧は茶の産地としても有名で、高級玉露茶を始め、旨い茶の栽培が盛んな街。

知覧茶は、60度くらいに冷ました湯でゆっくり入れるとほのかに甘みが出て旨い。

 

歳のせいか、近頃ようやくお茶の味が分かるようになってきました(笑)。

 

写真 最後は、甲斐国(現山梨県)甲府と信濃国(現長野県)南佐久郡川上村との境にある標高2599メートルの金峰山にて。

恥ずかしながら、生まれて初めて2500メートル超の山に登りました。

目の前の山をただひたすら一歩づつ登るという営みには、屁理屈をこねなければ気が済まない今風の「からごころ(本居宣長が心底嫌った、こしらえもののイデオロギー)」などでは到底説明できない真のリアリズムがある。

遥か西方には霊峰富士も見えます。霧が多いこの季節(初夏)に金峰山から富士山が見えるのはめずらしいそうです。

どうですか皆さん、私のこの満悦しきった表情は(笑)。